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合宿免許を採用

六年間で、私は自動車の構造はもちろんその修理のコツものみこんだし、自動車の運転も習得した。 こうして、自分で運転し、大都会のアスファルトを自由に走れるようになり、私の最初の希望はまずまずかなえられたわけであった。
いよいよ年季も明け、私は二十二歳の春、浜松に帰り、主人から分けていただいた「アート商会浜松支店」を開店、店主として。 本立ちになった。
そのとき、主人のほうは神田のガード下から早稲田のほう、移転した。 ピストンの仕事を始めるようになっていた。
「アート商会浜松支店」と看板はなかなか立派であるが実質はささやかな修理工場ともいえないような貧弱な自動車修理場であった。 修理工も、店主である私一人という店であった。
父は私の開店を心から祝ってくれ、家屋敷と米一俵を贈ってくれた。 開店当初は店主兼工員である私があまりに若造だというので、客もなかなかつかなかったが、とにかく、ひととおりのことはなんでも修理できたから、しだいに見なおされるようになった。

おかげで、その年の暮れには「金八十円也」の純益を上げることができた。 二十二歳も終わりに近づいていた私は内心大いに気をよりしていたことはいうまでもない。
 当時、浜松にはほかに二、三軒ぐらいしか修理工場がなかったせいか私はしだいに余裕をもつようになった。 余裕が出てくると、子供のときからの性分で、変わった機械がいじりたりてしょうがない。
そこで、あれこれとモーターの研究をはじめ、自製のモーターまでできるようになった。 そのモーターをとくつけたモーター・ボートまで自分でつく若い工員をつれて浜名湖で乗りまわすのが、私の楽しみの一つになった。
もちろん自動車のエンジンを改造したものであったが、モーター・ボートとしての性能は、自分ながらなかなか上出来だと思った。 そうして暇さえあればハーレーのサイド・カーに若い工員を乗せて元浜、ぶっとばした。
元浜、つくと宿、サイド・カーをあずけ今度はモーター・ボートというわけである。 すると、 芸者をつれた遊客が乗せてくれという。
私は仕方なく、遊客を乗せて浜名湖じゅうを自分の庭の池みたいなで乗りまわすのがその当時の私のスピードにたいする一つの挑戦であった。 前後を通じ、私は六、 七隻のモーター・ボートをつくり片端から乗りつぶしたような記憶がある。
モーター・ボートを楽しんだあとはきまって料理屋で芸者をあげてさわぐことになっていた。 というといかにも遊び暮らしていたように聞こえるがやることだけはやっていた。
たとえば、自動車のダイナモの線巻きを夜中までかかってやく、二十円を手に入れたこともあるし、自動車の車輪のスポークを、木製から鉄製のものにつくり出して特許をとったのもその当時のことであった。 この鉄製スポークはたい、評判をよび、インドあたりまで輸出されたこともある。

月千円の儲けは軽いほうであった。 一生のうちに、なんとかして千円の金を貯蓄したいと思っていたことがあった私が二十五歳で月に千円の利益を上げるようになったのだから、それだけに濫費も激しく金はや貯えられなかった。
儲けるとすぐ若い連中というよりは若い仲間というべき社員をつれて遊びに行く くいまでも忘れないが、そのころ浜松芸者をつれて静岡、花見に行ったことがある。 それ以前から私は自分の自動車をもっていたが、使わないときには運転手に勝手にかせがせていた。
その自動車に乗って、静岡、行ったが、花見酒にすっかり酔ってしまった。 いざ帰ろうというときになって私は運転手にいった。
「俺はすっかりくたびれたから、今度はお前が運転席に座れ、大丈夫か」と。 運転手も私同様相当に酔っ払っているようであったが、任しておきという。
そこで、私と芸者とがうしろの座席に座って静岡を発った。 その途中、とうとう運転を誤り、私たちは自動車もろとも天竜川、とびこんでしまった。
生命のあったのが脊跡みたいなものであった。 スピードにつかれた私の最初の命拾いであった。
私の工場は数年たたないうちにドンドン工員もふえ、やがて五十名ほどの工員をかかえるようになった。 考えてみると、修理工場の発展などというものは、いくら伸びたところでタカが知れていると妙な考えにとりつかれるようになった。
いくら修理技術がすぐれているからといって、東京からわざわざ頼みにくるはずはなし、ましてや自動車王国といわれるアメリカから依頼がくるはずもない。 そこで、私はこう考えた。
「修理は、しょせん修理にすぎない。 経験さえ積めばだれにでもできる仕事だ。
だから、これに一生を費やすのは、実にばかげている。 人間と生まれて生きている限り、どうせやるなら自分の手で何かをこしらえよう。

工夫し考案し社会に役立つものをつくるべきであろう。 他人様の製作したものを修繕するなどという、いわば人の尻馬に乗った商売なんか、犬に食われてしまえ。
そうだ、自分のこの手で何かつくつてやろう。 一歩前進してみようじゃないかり」 やろうと決心したら、 せっかちで向こう見ずなのが私の性格である。
そこで、私は自分の決意の命じるところに従い工員五十名ほどの修理工場に伸びていた工場をあっそくやめて今度はピストン・リングの製造工場に切りかえてしまった。 ピストン・リングというのはわかりやすく説明することはむずかしいが要約すれば発火室に潤滑油が入らないように、止める作用をする輪でエンジンのカナメともいえる大切な部分のことである。
その当時すでに理研などでも大量に生産していたが、まだ日本ではそれほど研究が進んでいないもので、民間で製造しているところはあまくなかった。 かなくむずかしい仕事に違いない、とわかっていたが、それならかえってやく甲斐があると自分を激励し、とにかりこの困難な仕事を選ぶ決心をした。
いざ始めてみると、 その困難さは私の予想以上のものでも途方に暮れることが次から次、と起こってきた。 私は事業内容をピストン・リング製作に切りかえると同時に、 「アート商会浜松支店」の看板をおろして「東海精機株式会社」 の看板をかかげた。
ピストン・リングに切りかえるまでには、重役のあいだに相当の反対者がいて、そんな勝手な真似はたとえ社長でも許せないと、どうしても承知してくれない。 決心したとなると、まっしぐらに突き進みたい私の性格が、この暗礁ですっかり参ってしまったのか、 私はひどい顔面神経痛にかかった。
その治療だと称して私はあちこちの温泉に入りびたり、医者、注射だと二カ月以上も仕事から離れた生活を余儀なくされた。 そのうち、仲に立って反対重役たちを口説き落としてくれた人があってようやく、切りかえが重役諸公の賛成一致をみた。

するとどうであろう。 それまで苦しみぬいてきた顔面神経痛がけろくとなおってしまった。
自分ながらも この突然の変化には驚くほかは病気快癒となると私はもうじっとしていられなかった。 翌日から新しい仕事に仝情熱を傾けはじめた。
全く思うようにできないのだ。 仕方がないので、とうとう鋳物屋をたずねて頼みこんだところ「お前らのような十年者にできてたまるかり」と剣幕で、全く敬つく島もないのである。
私は歯をくいしぼって夜中二時、三時まで鋳物の研究と取っ組む日がつづいた。 髪はのび放題 く 散髪屋、行く暇が惜しいのだ。
しまいには、妻を工場、よんで長くのびた髪を切らせながら、仕事をつづけたこともあった。

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